努力主義の時代から美意識の時代へ

最近、特に思うのは、社会の構造が変ってきたのではないかということ。今の不況はただの経済不況ではなく、社会構造の変革に伴う混乱状態なのではないかと思う。

サラリーマンは社畜だという議論がネットの至る所で繰り広げられている。実際、産業社会ではルールに従い、我慢強い人間が重宝され、会社はそのような人間を「揺りかごから墓場まで」面倒を見る戦略を取ってきた。しかし、昨今のリストラの嵐を見ているとそのシステムが崩壊に向かっているように思われ、実際、ネット上ではそのような話題には事欠かない。

産業革命以降の社会では、ルールを遵守し、真面目な人間が尊重された。社会の価値観は単一的でしっかりしていたから、その価値観に適応するが重要視され、うまく適応できたものが、大企業や官僚になって行った。

価値観が単一の社会では、その唯一の価値観にうまく適応できたものだけが、上に行くことが出来る。学校も産業革命の工場をモデルにしていて、その価値観を植え付けるためにシステム化していた。この方式は産業社会では成果をあげており、実際、今の新興国もこのシステムで突っ走っているのだ。

だが、ここに来て先進国の人々は何か経済的限界があるのではないか、大量消費以外にも何か幸福になる道があるのではないかと考え始めたのである。


以前の高度経済成長期には人より多くの金やモノを持つ事が幸せであるという価値観が強かった。その時には、価値観が単一なので、方向性は決まっているので、努力すれば、結果が出た。だから、以前は努力が美徳だったのだ。これは日本人の得意とするところである。

しかし、時代は何故か変ってしまい、努力が報われなくなってきた。では、何がそれに代わるのだろうか。私は、努力に代わる価値観は美意識ではないかと思う。

ここで言う美意識とは芸術家の専売特許の美意識ではない。簡単に言えば、「いい感じ」を感じる事が出来、「いい感じ」を再現できる能力を指す。

為末さん @daijapan がスポーツでも「いい感じ」を見つける事が重要で、「いい感じ」を再現させるために頑張るのだと書いていた。これを見て、私はそうかスポーツも美意識が重要なのかと、はたと気づいた。


スポーツも美意識が重要だ言えるなら、他の分野も美意識が重要だと言えると思う。芸術やモノ作りに美意識が重要なのは周知の事だが、教育や研究、全ての職業に美意識が必要だ。我々はイチローの生き方に美意識を感じるのだ。

次の時代の社会は、美意識を必要とする。誰かが作ったルールにうまく適用するだけの人間は必要ない。だって、芸術家を工場で作る事なんて出来ないではないか。工場をモデルにした学校教育が巧く行かないのは、当たり前だ。芸術家を工場に閉じ込めたら、反乱を起こすのは当たり前だ。

「いい感じ」というのは周りから与えられるのではなく、自分だけがそう感じると言う事。だから、美意識は個性が必要となる。そこにはまた落とし穴があって、自分を深めるものしか美意識を見つける事は出来ない。他人の言いなりに感じたり、考えたりしていては美意識は育たない。

これからの我々の問題はどうやって子供たちの(そして大人の)美意識を潰さずに育て、経済活動へつなげて行くかと言う事だ。