情報循環とお金循環

 吉川弘之氏のシンポジウム講演会をまとめた記事を見つけた。タイトルは「イノベーションと情報循環」。研究などの新規情報(知見)は、「観察型研究者→synthetic型研究者→行動者(実践者)→自然→観察型研究者」という情報伝達サイクルをぐるぐる回ることにより、情報が洗練され、進化して、ついにはイノベーションに到達するというものだ。
 情報は、循環してこそ生きてくるというものだ。このことは、前回にも紹介したツイッターノミクスでも語られているウッフィーの概念と似ていて、情報がユーザーによって使われる事により情報提供者がウッフィーを増やし、情報経済(?)的に自律して、存在できるとということと似ている。
 私は、同じようなことをお金に関しても考えていた。政府が多額の税金をつぎ込んで、経済的弱者にばら撒いたり、必要のない公共事業をしても、結果が出ないのと類似点があるように思う。ただのばら撒きでは、砂漠に水をまいているのと同じで、水は栄養とならず、作物は育たないのだ。少量でもいいから、水(お金)が循環するシステム作りが重要だ。少量の水(お金)が回れば、経済的砂漠化が減少し、経済的に自律して小さな経済圏が生まれるのだと思う。
 これまでの社会経済システムは、政府が国民から税金という水(お金)を吸い上げて、山の頂上から垂れ流して、既得権のある権力者のみが潤い、下層の貧乏人は汚い水を飲んでいると構図になっている。
 安売り競争は、かならずしも良いものではなく、一見消費者にとって良いことのように見えるが、安くて悪いものばかりを消費しているとある種の病気になり、消費者はいつかは購買意欲がなくなって、販売する側も商売が成り立たなくするのだ。ファーストフードはお手軽で安いかもしれないが、そればかり食べ続ければ、病気なったり、味覚異常になってしまう。医療費もかさむので、結局、高くても高品質で安全な食べ物を食べざるを得ないことになる。これは、最近、環境問題で語られている持続可能な生き方と符合する。
 しかしながら、これからの情報経済もマネー経済も循環型にならなければ、成立しないのではないかと思う。というよりも、そうなることを期待している。このことは、まるで仏教の縁の思想が現代に形を変えて現れたようである。つまり、全てのものは何らかのつながりを持って存在しているのである。

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ツイッターノミクス - スピード冒険野郎の操縦席