自分にとって重要なことは三度行なう

 以前読んだ企業小説の中で、三度の拒否というのがあった。


 ある女性企業家が自分と同じように企業家を目指す女性を支援したいと考え、会合を開いた。たまたま、そこに居合わせたウェイトレスが興味を持ち始めた。彼女は自分の境遇に不満を持ち、何か変化を求めていた。そこへ女性企業家が現れ、彼女は一目見てこの人こそ自分を導いてくれる人だと直感する。女性企業家もそれとなくウェイトレスが見込みがありそうと感じ、それとなく視線を送る。ウェイトレスは思い切って、自分にアドバイスをくれるように嘆願するのだが、三・四度目でようやく女性企業家はOKをだす。三度の拒否がその女性企業家のモットーだったのだ。


 私は、最初この物語を読んでいた時、なぜそんな意地悪をするのか、なにを言わんとしているのか、理解できなかったか、今は何となく分かる気がする。何か自分にとって重要なことをする時に三度位はやらなければならないのだ。


 私は、とても面倒臭がり屋で、人と話をするのや、事務手続きで電話するのも嫌いだ。だが、好きなこと(私の場合アウトドアスポーツ)をやっていく内に、一度ではうまく行かないと事実に気づいてきた。


 人と話すのも面倒臭いので、話は早く済ませたいと思い、あせるし、何を話すかを考えるだけでも気力がうせてしまう。更に、私自身どこか放漫なところがあって、私がこんなに考えて話すのだから、相手が分かって当たり前と思ってしまうので、結局うまく行かないことも多かった。


 相手が人間であれば、最初の一回でトントン拍子に話がうまく行くなんて有り得ないことだ。相手は違う人間で、私という他人など眼中にないのに、私の要求を理解しているべきだという非現実的な期待をかけ過ぎていたのだと思う。


 とにかく、人間同士だったら、第一印象は当てにならないということが多かった。二度、三度とやり取りをしていくうちに一つの小さな仕事(作業)の意思疎通が出来てくる。最初の一回で意思疎通が図れるのは、初球ホームランのようなもので、滅多にあるものではない。


 「三顧の礼」という故事成語がある。劉備諸葛孔明を迎えるために三度訪ねたという故事だ。


 劉備ほどの人物でも目下の者にサンド訪ねたのだ。この故事は非常に象徴的だが、我々にも通ずるところがある。私も人に対し上から目線で見ていたのではないかと思う。上からの目線ではなく、少なくとも横からの対等な目線で人と対応して仕事を進めるべきだということだ。


 ともかく、三度位は行なう心持ちで事に当たる必要があると思う。特に、自分にとって重要で好きなことならば、なおさらだ。野球でもバッターは三回までバットを振ることが出来る。三回目でヒットを打てれば、それで良いのだ。