人は自分が教えられ、実感したことしか、人に教えることはできない

私の父は、海が大好きで、私が十歳の頃、今で言う脱サラをして、家族全員で離島に引越しした。父はダイビングが好きで、私は父に認められたいという気持ちもあって、父にくっついて、ダイビングについていった。

 確かに、ダイビングで魚や貝を採るのは楽しかったが、父と一緒に一回海に入ると二時間は回遊していて、私はスーツも着ていないので、終わりの頃には体が冷え切ってしまい、それが嫌だった。

 今から考えると、父からは全く勉強のことは教えられなかったが、海での過ごし方についてはよく教えてもらった。父は勉強嫌いなので、本も読まないし、字も書かないので、手紙も書いたことがなかった。だから、一度も学校の勉強のことで父に質問したことも無く、いつも自分で勉強していた。

 子供の頃から私は学校の成績は佳いほうだったので、自分は頭を使う頭脳労働が向いていると思い込んでしまい、受験勉強に励み、大学に入学した。その後、大学院に行き、研究所に勤めたりした。しかし、最近、分かってきたのは、私は頭を使う仕事には向いていないということだ。机に座って、文字やら数字やらを操って、報告書を書いたり、計算をしたり、細かい事務処理をしたり等、そんなことは向いていないということに気づき始めたのだ。

 思い返してみると、学校の教師から教わった記憶はない。学校の勉強は教科書を読めば、大体理解できたので、あまり教師の話はまじめに聞いていなかった。私は人から教えてもらう経験が乏しかったのだ。人から教わったのは、唯一父からだったと思う。父から教わったのは、人を自然に連れ出して、その楽しさを教えることだ。結局のところ、今の私が人にしてあげられるのは、人を自然に連れてていって楽しさを教えることだ。それだったら、気張らないで、無理しないで行なうことができるのではないかと思う。人は自分が教えられ、実感したことしか、人に教えることはできないのだ。

 天気の良い日には、外に出て、スリルのあるスポーツに挑戦すること、それが私の求めるものだ。一生、建物の中で仕事をしていきたくないのだ。自然の中で生きるとは、私の父が目指したものと同じだ。私の遺伝子は父の遺伝子から受け継がれ、興味の志向性も受け継がれた。結局、カエルの子はカエルなのだ。いくらあがいても、親を超えることは難しいのだ。遺伝子や幼少の頃の教育で決定付けられている。少なくとも志向性は似たものなっている。後は、それをいかに改善し、少しでも自分の特徴を付け加え、バージョンアップするかということだ。