父について:カエルの子はカエルだ

私は最近よく父について考える。40歳を過ぎてくると、色々な点で父に似てきた。というよりも、実はほとんど同じような生き方をしてきたと感じることが日増しに多くなってきた。


父は、自衛隊に行っていた。私が小さい頃、父は怒ると自衛隊の教官のように「気をつけ!」と言って、直立不動の姿勢を取らせた。


26倍の難関を突破して(戦後すぐなので仕事がなく、公務員になるのは非常に難しかった)、自衛隊に入隊した。それなのに、軍曹まで昇進したが、高卒で学歴がないので昇進の可能性がないと思い、辞めてしまった。


以前はそんな父のことを根性無しだと思っていた。しかし、最近になると父の境遇をよく感じるようになってきた。


私も研究所に勤めていたが、博士号という学歴がないために冷遇されてきた。二度も博士号を取ろうと挑戦したが、どうもいつも後一歩という所でうまく行かないのだ。最後の踏ん張りがきかないのだ。


考えてみると私と同じく父も事務処理が苦手なので、本質的に学歴や博士号等の筆記試験の社会制度の階段を上るのは苦手なので、うまく行かないのではないかと気づき始めた。


父はよく「字を書くのは嫌じゃあ」と言って、年賀状も全て母に書かせていた。私も文章を書くのが苦手なので、父と同じ性格だと今更になって気づいた。


私の人生の失敗は事務処理が苦手なのに、ホワイトカラーの仕事を目指して頑張ってきてしまったということだ。


父は横浜で建設業を経営していたが、ダイビングが好きで毎週社員を引き連れて、伊豆に出かけていた。海が大好きでとうとう家族を連れて八丈島に移住してしまった。まだ脱サラなんて言葉もない時代だ。小学生だった私には慣れた場所を離れ、離島へと引っ越しをした。私とってはなはだ迷惑な引っ越しだった。


父は八丈島で漁師になりたかったそうだが、死の危険があるから周りから止められ、ホテルバスの運転手になった。しばらくすると無理矢理1日おきの勤務にしてもらい、1日おきに海でダイビングすることになった。


休みの日になると私はそんな父にくっついて、スキンダイビングや銛で魚を捕るやり方を学んだ。荷物を担いで垂直の溶岩の崖を昇り降りし、観光客が来ない穴場で数時間潜り魚を捕まえていた。


父は海が好きで縛られるのが嫌いだった。人に命令されるのも嫌だった。私も父と同じで組織の中に縛られるのが嫌いで、会社ではよく喧嘩をした。


父はよく会社の従業員を呼んで、飲み会を開いたが、煙草をスパスパ吸ったり、大騒ぎした。私はブルーカラーの雰囲気が大嫌いだった。


私が子供の頃に住んでいた八丈島は閉鎖的な場所で、ほとんど肉体労働の仕事しかなく、島の同級生たちも気性が荒く、私はそういう雰囲気が嫌でたまらなかった。


父のような肉体労働者にはなるまいと思って、島を抜け出すために、高校時代には必死で受験勉強して国立大学に入学した。島を抜け出すことには成功したが、また新たな問題を作り出しただけだった。


大学に入れたのはよかったが、入学のうれしさもつかの間、五月病にかかり、自分が何をしていいのか分からず、悩みの日々が始まった。


二十年以上も親元を離れ、組織で働き、結局分かったのは、組織の中では居心地が悪く、父親と同じ道を歩んできたということだ。社会に縛られたくないという遺伝子は父ゆずりで、変え様のないものだったのだ。


今は、昔の父と同じく、自然の中で突っ走ることを心がけている。父に教えてもらった自然の恐さや楽しさを今になって貴重な体験であったとしみじみ感じている。父と私は似た方向を目指しているのだ。


今では、父の苦しみが分かってきて、父の行動の全てを理解できるようになった。だが、父の求めた自由を理解するだけでは十分ではない。私は、更にその上に上乗せをして父の果たせなかった自由を息子として実現させなくてはならないと最近考えるようになった。